25cm口径反射望遠鏡「銀次の部屋」IV 兼 亀田 滋のHP:掲示板のコーナー3

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創作・作品評スレッド①

「創作・作品評スレッド」を作りました。勿論、記事個々のコメント欄に書いて頂いても結構です。

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  1. 2009/05/04(月) |
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  4. | コメント:7
<<銀次出動。レーザ光軸調整の後、月面撮影。 | ホーム | ついでに。>>

コメント

Emerson Lake & Palmer 「Tarkas」から随想。

私はこのサイトの主催ですので、投稿スレッドに書かなくても記事にすればよいのですが、訳あって目立たぬよう、ここに書きます。
訳って、特に大層な話ではないのですが、オリジナルの詩はMr.Gregory(Greg) Lakeの手によるものですから、私ごときが自分のサイトのための「客引き的に目立つコンテンツ」として書くことについて、私自身は抵抗があるのです。
世にはオリジナルの脳髄に宿った稀有な霊感のコピーをそのまま無断でコンテンツとして記載しているサイトが沢山ありますが、私はかつて創作者の端くれでもありましたので、今も目的が対象を礼賛することであったとしても、それに倣うことは抵抗を感じます。(私が抵抗を感じるというのみに留まります。それをやっておられるサイトの批判の意図もありません。)
ただ2009/05/02の記事「ついでに。」において、私が最近毎朝、何に鼻を真っ赤にして、それをマスクで隠して、職務に就いているのか、その内容に触れることなしには話は閉じていないとも感じているのです。まあ、弊サイトに訪問頂く多くの方には、あまり関心事ではないかも知れないことも承知はしていますが....。

なので、全文・訳引用は避けます。(和訳とその文責は私自身によるものです。和訳は他の国内サイトやCD付録にはないと思います。)それはやはりCDを買って(あ、ただし英詞カードすらないCDもあります。何社からか出ているリマスターCDのうち、原詞印刷物に関して、またリミックス状態に関してよく確認をされたほうが宜しい作品でもあります)、味わっていただくのが、いくら発表後38年が経過(日本の法律ではもう著作権保護の対象から外れている筈です)していても、私は本筋かと考えています。

---

Emerson Lake & Palmer 2ndLP「Tarkas」から「Stone Of Years」の一部分。

Has the dawn ever seen your eyes?

Have the days made you so unwise?

Realize, you are.

夜明けの光をお前は見たことがないのだろう?

長い日々の果て、お前はそれほど愚かになったのか?

そのことを、そして今あるお前を思い知ると良い。

(中略)

How can you know where you've been?

In time you'll see the sign

And realize your sin.

お前が今まで居た世界をお前はどうして知れようか。

啓示がお前の眼前に示されたとき、

初めてお前は自らの持って生まれた罪深さを知るのだ。

---

全25分弱の小組曲構成の本タイトル曲の冒頭のボーカル部分の一部です。
いつもここで目頭が熱くなります。

後のほうの組曲構成の歌詞の流れからは、この部分も当時の為政者(エゴからの戦争を始めた大国と、それを容認する作者の母国の両方の)への怒りとして解釈され得る内容の歌詞なのですが、いくら精進しても、満足な成果に至らない毎日を送る私の今に、世の中に今、腐るほどある「はげまし系・癒し系の歌詞」の真逆の内容に思えて、心に突き刺さる想いで居ます。

安易に「お前のやっていることは正しい。」「頑張れば大丈夫。お前は唯一無二だから。」などと言われても励みにならないのです。
ひねくれているのでしょうね。聞き手に元気を与える目的の軽薄な励ましを歌詞にする代わりにCD買ってね、みたいな「人生の応援歌」みたいな企画(そんなのは「作品」ではないです)、私は好きになれないのでした。

でも、今は外面「ヒップホップ」だろうが「ヘビメタビジュアルバンド」だろうが、みんなそればっかりですよね。
仕方がないのです。それらの作品を扱うプロデューサーが「四畳半フォーク」どっぷりの世代だった人々だからでしょう。
「辛くて悲しい」ことを歌詞で表現するのに「辛い。悲しい。」と直接書く、そんな世界の人がプロデューサーだと、オリジナルがどんな音楽集団でも結局はパッケージの形だけ違っても、本質は全く同じ「人をヨイショして寺銭を貰う」みたいな、そんなものが「意義ある音楽作品」として「合格」→商品化されていくばかりなのでしょう。そうでないことをやろうとしても「意義が無い。まだアイデアが練られていない。」と却下されるのではないでしょうか。「40代50代のプロデューサーが価値ありと認めた作品だけが世に出る」「流行に敏感だと言われる若者の一部が選択肢を狭められた形で、その作品に飛びつくことがお洒落と上の世代から認められる」その忌々しい構図が、軽音楽の本来のありようから、如何に極北にあるのか、そのことを誰も危惧しない、その世の中の薄ら寒さを、新聞の右傾化や政治の幼児化などと同様に感じてしまいます。

その真逆にこの歌詞はあります。「お前がようやくつかんだ救いの啓示も、愚かに成り下がったお前を救ってくれない。お前が過去にしてきた所業やもって生まれた業の重さ深さを思い知れるだけなのだ。その業を乗り越えて行けないなら、お前が居る暗黒の世界に朝焼けの光は訪れない。」と。
何と突き放した物言いでしょう。でもオリジナル文意の「正統な怒り」に一点の曇りもないから、そのような派生の解釈にも、冷たさはないのです。
自分に厳しい修行を課している人の指摘は、厳しくても暖かく感じるのに、似ています。
優秀な芸術作品は常に多面解釈が可能という側面があります。それは現代の「四畳半フォーク」プロデューサーが「辛い。悲しい。」を「辛い。悲しい。」の連呼でしか表現しない世界の人であるのと、真逆にあると言えましょう。

1971年の作品です。日本では半年前に「こんにちは~こんにちは~。世界のォ~国からァ~。」とか流行っていたその同時期に英国では軽音楽で、このような作品がしかも聞き手のセールス支持を得て生まれていた、その落差にも感涙させられます。
「こんにちは~こんにちは~。世界のォ~国からァ~。」だって、国内では浪曲世界の方が歌謡界に進出しての知名度を上げられたという、芸能興行界にとっては大エポックメイキングな出来事だったんですよ。そのことも知っていますが、それがゆえにその差の大きさにはやはり文化水準の差というものを痛感させられます。あれから40年弱経過してもまだ文化水準が追いつかない、そんな国の端くれに今日も居る、そのようなことも一緒になって、毎朝、私の鼻の頭を赤くさせます。

  1. 2009/05/06(水) 02:01:10 |
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  3. 亀田 滋
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King Crimson 「21st century schizoid man」解釈とその背景。

先日コメント書き込みをした某SNS上で、コメントをお読み頂いた方からのメール文中に「英語が分かったら、『21st century schizoid man』の意味を知りたい」とのお話があったので、 お返事をしてみました。
存外うまく纏まったと思いましたので、勿体無いから、補記してここにも引用しようという訳です(またですか^^;)。

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King Crimson 「21st century schizoid man」は最近カバーされたものがTVバラエティのBGMなどでもかかっていて、脚光を再び浴びている感じですね。まずどんな歌詞なのか正確に知るとよいでしょう。単純訳もネットのどこかを探せば、この作品はあるでしょう。

http://ja.wikizic.org/King-Crimson/lyrics-100787-21st-Century-Schizoid-Man.htm

このサイトは、原詞は割合正確に検索で出てきます。
日本のフォーク系(今やヒップホップもヘビメタビジュアルもみんな本質はフォークどっぷりであることは、弊ブログの先日記事に書いてます)音楽のように「伝えたいことが一意的に限定」でないので、単純に訳しても、それぞれ解釈は異なってくるかもしれません。

---
追記:このコメント記載後、このサイトから原詞がなくなってしまっているようです。
代わりに海外サイトですが(勿論、アクセスのリスクは自己責任ですよ)、ここにも原詞は豊富です。
(EL&Pなどの歌詞に一部誤りがあるのも確認していますが。)

http://www.metrolyrics.com/21-st-century-schizoid-man-lyrics-king-crimson.html

---
余り深い意味のある歌詞ではないと思っています。King Crimson 1stアルバムの冒頭を飾る意味で「知的な暴力性があれば、それでよかった」作品かなあと理解しています。ボーカルにファズをかけているのも、ノーブルなGreg Lakeのボーカ ルでは「知的な暴力性」の迫力が足らなかったのでしょうね。
ボーカルにファズをかけた最初のメジャー作品はThe Beatlesの「I Am the Walrus」で、そのサウンドと歌詞に発表当時「Johnが狂ったか?」などと言われたようです。つまり作品のコンセプトまで参考にしている感じなんですね。「I Am the Walrus」 のほうが言葉が映像的で、詩的な高尚度は高いと私は感じていますが。
King Crimsonに限らず、プログレバンドは多かれ少なかれ、The Beatlesの中期作品群(日本では全く無視されますが、特に難解ではないと思います。高尚ではありますが。)の影響を色濃く継承しようとしている側面が否定できません。

「21世紀の精神異常者」も、もう今や21世紀になって久しく、何ら変哲もない日常の存在となってしまいましたが、これが出た1969年には、その言葉だけでいろいろな未知の畏怖イメージ(輝かしい科学未来世界にも制御不能な恐怖の存在、みたいな)を聞き手に与えたのではないでしょうか。1st アルバムのジャケットデザインからもその意図が見えます。
映画「時計じかけのオレンジ」(S.クーブリック監督作品)なども同時期に公開され、近接したイメージが相乗効果をもたらすことでの、当時の受け手のイマジネーションの広がりなども容易に想像ができますね。その意味で本作品の歌詞が断片的で言葉足らずなのは、充分意図のもとに作られているのです。(そして次曲「I Talk To The Wind」のあまりに濃厚な詩的な世界と鮮やかな対照を見せる効果もあるのでした。)
まず「新しいイメージを喚起する」こと、それはこの時代の芸術に最も重要な使命だったのではないでしょうか。

その精神性の理解も生乾きのまま、手法だけ過激化させ、衆目を集めようとする勢力のほうが、当時の素人(や、玄人を自負する芸術評論家やメディアにまで)にはウケてしまい、アバンギャルド、ハプニングなど、現代芸術は軽薄な方向へ散逸して行きます。それらがその後、何も産まなかったこと(=つまり前衛ではなく、幼児の戯れ事だった証明)は今や誰の目にも自明でありますね。

  1. 2009/05/07(木) 21:50:12 |
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  3. 亀田 滋
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YES「Tales From Topographic Oceans」について(またですか)。

YES「Tales From Topographic Oceans」について、国内においてはYESファンにさえ、その存在を無視されている印象です。
以前にも書きましたが、難解でもノリで聞けてしまう前作「Close To The Edge」や次作「Relayer」に比べると、波頭の砕ける様を模したと思われる#1「The Revealing Science Of God / Dance Of Dawn」(神の摂理の知らせ/夜明けの舞踏)のゆったりとした後ノリや、#2「The Remembering / High The Memory」(追憶/高みにある記憶)のリズムレス(最後には一度バンドアンサンブルに戻る)、#3「The Ancient / Giants Under The Sun」(古代/陽に晒された巨人達)のギターソロが延々難解に続く「決して安易に楽しめない感じ」が、とても敷居を高くしているのではないかと考えます。バンドサウンドに戻ったかの#4「Ritual / Nous Sommes Du Soleil」(儀式/太陽の子)も、「ここで終わればノリノリだったのに、何でこんな余分みたいのが延々つくの?」という感じ(意味は勿論過剰にありますが)で、そのままでは終わりませんしね。

※上記題名邦訳(訳責:亀田)の「/」はオリジナルでは改行となっています。#2や#3は連続した1文と見たほうが自然かもしれません。

学校では音楽の時間にモーリス・ラヴェルは「ボレロで有名」と習います。その曲が凡百な音楽評論家にもユニークに聞こえるからでしょう。
でも本当は彼は大作「ダフネとクロエ」(よく邦題は「ダフニスとクロエ」となっていますが、フランス語ですからね)のために生まれついたと言えると思います。「Close To The Edge」と「Tales From Topographic Oceans」についても、衆知の構図がそれに似ていると感じます。

とにかく「安易に分かったふりをするマニア」には頭痛と消化不良感を与え、「歌って踊りたい」普通の音楽ファンに全くの門前払いと「買って損した」感を与える作品かもしれません。
しかし「フリーキー」とか「アバンギャルド」とかのような「いい加減に作った。正解は聞き手が探せ。」みたいな、そんなものではなく、美しい素材と構成が、他のアルバム以上に緻密に構成されています。それは下記にもありますが、#3が練習テイクから本番に至る間にどれだけブラッシュアップされて変貌したかを確認されると分かります。

ご常連様、ichiyasuさんとのメールのやりとりで、先日、このあたりをお話させていただきました。
また今回も流用でその部分を補記した上で転載します。
何の参考にもならないかもしれませんが、もしかして、ichiyasuさん以外にも、記事を見てアルバムを買われた方がいらっしゃるかもしれません(居ないかなー)。

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一聴してなじめない場合には、#4→#1→#1の練習テイク→#1→#2→#3と進まれるとよいかもしれません。
これは聞く順序の流れではなく、1ステップずつ潰していく過程です。
#4を飽きるまで聞き、飽きる手前くらいで#1に進み....という感じで「乗り越えて」行きます。はは....既に練習ドリルのようで、もう「娯楽」ではないですね。
この過程で大抵の「いい加減な想念で作られた音楽」は、アラばかりが見えてきて、次に進めなくなりますが、それに耐える作品の場合、「乗り越えて」最後に冒頭に戻ったときには「なぜこれが難解に思えたのか。これしか解はないじゃないか。なんと自然に美しく流れる構成なのか」と思えるようになります。

20世紀初頭前後の近代音楽もそのようなプロセスで、深みや美しさが分かってくる作品も多いです。「一聴して駄目」が軽音楽の聞き方とすれば、もうこのアルバムは軽音楽の範疇に留まらない、のかもしれません。

それを20歳代~30歳代になりかけ程度の若いバンドが、難解にこねくり回す意図などなく自然な発露として作品に纏め、世に産み落とす。才能というものは精神活動の観点で見ると、物凄いものだと改めて認識させられます。

#3の練習テイク(ボーナストラック2曲目)は「ご参考」程度の完成度です。本番テイクとは別の曲ほどに違う印象ですが、主題や主な構成は既にできあがっている感じです。本番テイクまで多くのブラッシュアップを経たことが分かるほどの変貌をとげていきます。決してあの本番テイクは出まかせ録音ではないことが分かります。でもきっとKingCrimsonだったら、そのままこの練習テイクの出来で、本番テイクにしたかもしれません。
ティンパニとメロトロンのユニゾンで仕上げたと思われる、本番版では消えてしまったオーケストラヒット音を確認されるだけの値打ちかもしれませんが、それもまた悪くありません。所詮ボーナストラックであり、作品の外にあるものですから。

このアルバムが前作「Close To The Edge」の勢いと期待だけでダブルプラチナセールスに至ったと見る向きもありますが、それは違っています。
なぜなら次作「Relayer」もプラチナだったのですから。
つまり本アルバムを買って、リスナーは「損した」とか「裏切られた」とは思わなかったということです。国内の消極評価とはあまりに違いますね。

「Relayer」はこのアルバムの「使い切れなかったフレーズとアイデア」を軸に作られている印象があります。そもそも題名が「Relayer」ですしね。#2の歌詞にも重要な節目のポイントで何度か出てきます。いつもアップテンポのリズムアレンジが復活した部分でそれらが出てきます。

紙ジャケット版には対訳がついていますが、何を言ってるのか、殆ど機械翻訳のようで、訳の水準が悪くて分からないでしょう。
特に代名詞をそのまま「彼ら」とかのままにしているのがいけません。まるで大学入試の「現代国語」の問題のような訳です。訳者は原詞のイメージを掴みきっていないのでは?
できるだけ分かるように、翻訳してみました。元々難解なイメージを語っているので、完全に平易にはなりませんが。

---
#2「The Remembering High The Memory」から(ほんの一部。訳責:亀田)

Relayer All the dying cring before you
Relayer We've rejoiced in all their meaning
Relayer We advance we retrace our stories

我々を継ぐお前に  死にゆく全てのものがお前の前で泣いている
我々を継ぐお前に  我々は彼らの叫ぶその意味全てを祝福してやったのだ
我々を継ぐお前に  我々は我々自身が背負う物語を進め、そして顧みてゆく

(中略:クラシカルな木管楽器系音とストリングスのキーボードソロへ)

Relayer All passion spent on one cross
Relayer Sail the futile wars they suffer
Relayer We advance we retrace our story, fail safe now

我々を継ぐお前に  十字架1つを建てるために、あらゆる情熱を注ぎ込んだ
我々を継ぐお前に  死に行く者たちが苛まれた無益な争いを潜り抜けろ
我々を継ぐお前に  我々は我々自身が背負う物語を進め、そして顧みてゆく 
今こそフェイルセーフが働くときだ。

(後略:この小曲唯一のハードドライブアレンジの部分へ:その屋台骨が冒頭のフニャフニャした14/12拍子の主題提示が変貌したものだと分かり驚かされる)

※フェイルセーフ:万一の操作失敗時に働く安全機構のこと。IT全盛の今では普通の用語になった感がありますが、1973年当時はどうでしょう....。確かにそれ以前の1968年刊 Clarke「2001: A Space Odyssey」ノベライズ版の原語版には出てきますが、やはり新規な概念語として注釈付でした。(世紀も変わって、現代を生きるあなた....大丈夫ですか?....って、何が大丈夫なんだ?^^;)

---

そして「Relayer」の最後に、プログレ黄金期の終焉を飾ると称される「To Be Over」がやってくるのでした。私にはこの2つのアルバム「Tales From Topographic Oceans」「Relayer」が映画の連作のように感じてまして、「To Be Over」は映画のエンドロールにつけられた音楽のように思えます。

「To Be Over」最後のコーラスに呼応するギターパートは、上記#2のラスト近くのギターソロと同様、「ロックギターソロ」 で凡人がイメージする(あまりにそればかりで演歌の定型イントロやお決まりのコブシ旋律と価値は全く変わらない、)コードスケール単純駆け下り・駆け上がりスタイルから最も遠いところにあるオリジナルと言えましょう。
「想念の高みを目指したプログレッシブ・ロックは、もうこれで本当に終わってしまったんだ」という想いを抱きながら、峡谷から天空に向けて木霊(こだま)が立ち上るかのような、そのコーラスとギターの綴れ織のエンディングを聴くとき、いつも目頭が熱くなります。(....これを書いてるだけで頭の中ではそれが鳴り響き、鼻の奥が湿ってきます。)




  1. 2009/06/12(金) 23:42:45 |
  2. URL |
  3. 亀田 滋
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また某SNSで音楽のことを長々書きました。

また某SNSで音楽のことを長々書きました。
とても好意的に読んで下さる印象が嬉しく、つい書かなくていいことまで、しつこく書いていました。
きっとお疲れになった方もいらっしゃるかと思います。

なのに、ここにそれを転載するのか?何ゆえに?
すみません。なかなかそんな文章を書く機会ないので、記念に転載させて下さいな(^^;)。
今週末にはその作業を致したいと考えております。

  1. 2009/06/23(火) 23:16:44 |
  2. URL |
  3. 亀田 滋
  4. [ 編集 ]

King Crimsonの中期アルバム「太陽と戦慄」について。

某SNSでのプログレッシブ・ロック関連トピックで、King Crimsonの中期アルバム「太陽と戦慄」についての話が出ました。
「どこをどう聴いていいのかわからないので教えてください」とのことでした。
そこで私が書いたものを、またここに遺しておきたいと思います。
まあ今回の内容には、コアなファンからは異論百出だとは思いますが、あくまで作曲家志望が作曲の観点で見た意見です。
「演奏に楽譜も何も要らない、その時の呼吸が全てだ」という高度な演奏家の視点とは全く逆に位置するものだというところは、承知で書いています。

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King Crimsonの中期アルバム「太陽と戦慄」について、ですが、「Book Of Saturday」「Exiles」「Easy Money」と「Lark's Tangues in Aspic Part I」の最後だけ楽しめばいいのではないかと思います。それぞれ、美しく、とても良くできてます。
私の作曲家仲間は他のセッション曲も「演奏者間の霊感が呼応する極めて高度なインタープレイで、アルバムで最も聴くに値する部分」などと言いますが、それは彼がかなり高度な演奏家でもあるからなのだ、と思うのです。

ジャズでもそういう要素を重要視しますね。それを意識して乗り越えようとしたところがあるんでしょう。ジャズが演奏部分、アドリブのみをインタープレイの対象としたのに比べ、もっと自由に作曲の部分までその場でやった、というところなんですよね。
彼らがThe Bealtes の最後の録音作品である「Abbey Road」をチャート1位から引きずりおろして、巨大セールスを上げた1stアルバム「In The Court Of Crimson King」がその典型ですが、ロックが如何に激しい感情の吐露であっても結局、予定調和に収束する、という宿命を嫌った、という話でした。
私は演奏より緻密に作曲された作品自体に関心があるので、あまりその部分は関心を持っていません。何度も聴いていますが、その目指した高みに作品が到達しているとは思いませんしね(この点、反論歓迎。というかご教示頂きたいものです。)。
しかも彼らはライブ演奏で、その録音版と同じ演奏をトレースしています。「それじゃあ結局、スコアがきっちり書かれてある予定調和音楽と変わらなくないか?」という点、戸惑いを禁じえません。「演奏者間の霊感が呼応する極めて高度なインタープレイ」ではないような.....。

アルバム「Starless And Bible Black」の中の「Trio」だけは、私はその路線の作品として「稚拙な結果ながらその成果を評価する」と考えています。
演奏者間のキャッチボールにより、演奏開始時点から即興で作られた曲と解釈しても、結果が美しいですから。勿論、あらかじめ事前検討して、その場に持ち込まれたことが明白なフレーズもDavid Crossのバイオリンなどに散見されますし、主題も砂糖菓子過ぎます。
しかし全体として「きちんと美しい音楽になっている」「調和・平和を感じさせる(これは試みの意図外でしょうが)」など評価に値します。

でもそういう変貌への全ての試みの端緒は2ndアルバム「In The Wake Of Posseidon」がマスコミから 「1stと変わらないじゃないか」と批判された悔しさにあった、というところ、何だか人間っぽい感じがします。超然としたコメントばかりのロバート・フリップですが。

そもそも「太陽と戦慄」....ジャケットデザインから国内で勝手にでっち上げたのですよね(またですか)。
原意は「アスピック(ゼリー料理)でとじた雲雀の舌」です。「雲雀の舌のアスピック仕立て」という感じでしょうか。
女性器そのもの、または、女性器に収まっている男性器をそう表現した、とのことです。
勿論、何か黒魔術的な象徴もあるんでしょう。でも私は宗教方面の関心はないです。

ちなみに、2ndアルバム「In The Wake Of Posseidon」の邦訳もおかしいです。こっちは中学生レベルの誤訳ですね。
名詞の「Wake」は「航跡・車輪の跡」であって、動詞の「Wake (up)」(めざめる)ではないのです。この文意では名詞であることは明らかです。
「ポセイドンの轍を追って」または 「ポセイドンのすぐ後を」が正解で、邦訳「ポセイドンの目覚め」は、如何にもそれらしいですが、きっと誤訳であることさえも気づかれていません。

つまり「巨大セールスを挙げた1stの二番煎じ」と彼らは最初から言ってるのです。なのに「1stと変わらないじゃないか」批判が悔しかったなんて、なんだか可愛いと思います(^^)。でもそれでプログレッシブ・ロックが初期の大層な形而美にこだわるより、変貌をもって進化とする、という方向に流れ出したとも言えるので、何が幸いするのか分からないものです。


  1. 2009/06/28(日) 12:26:13 |
  2. URL |
  3. 亀田 滋
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YES「Tales From Topographic Oceans」の歌詞の解釈について(またですか。その2。)。

難解な概念を多く含むYESの音楽・詩の世界ですが、某SNSで「Tales From Topographic Oceans」の歌詞の解釈について話題が出ました。
その時の記述もここに遺しておきたいと思います。
一部、問答形式となっており、私自身が記述したのでない行の引用を含みます。関連者の方には転載に関してこの場でも感謝差し上げます。

---

> Jon Andersonの精神世界をまるごと訳せる人は日本にも、ほかの国にもいないと思います。

私が弊サイトで昔のVJセーラ・ロウエルさんの過去の「My Favolite Bandは何てったってYES!」発言を格好よすぎると書いたのはこの点です。
きっと日本語に縛られず、原語のニュアンスをご堪能の上、大好きだっておっしゃっているのでしょうから。

> 「Tales From Topographic Oceans」の詞には、「I」も「YOU」も「THEY」もふんだんに出てきますが、どれも、前後の関連で具体的に誰をさすのか特定できません。

まあ含みは持たせてありますね。聞き手が自由につなぎ変えた解釈をしても意味が破綻しないように自由度を持たせある感じはあります。
でも本来、一意的には意味があると思います。
思いついた言葉をランダムにぶつけている部分もある作品もありますが、流石にそれだけではないので、元々、Jonの頭には1つのイメージがあって詩作に至っていると思えます。「全ての歌詞がアバンギャルドやハプニング的に投げつけられた言葉」だとは私は思いません。
それゆえ、きっちり文と文の関係性を押さえようとして、その人なりの意味を掴もうとするプロセスも同時並行に私は大切だと思ったりします。

大学入試の現代国語の問題と同じです。(小林秀雄氏、入試問題の常連でした。「『それ』が差す具体的な内容を挙げよ」。でも社会に出ると「悪文の典型」とも言われます。)
作者が本来どう意味付けしていたかは「特定不能」ではないと思います。個人に任されたゆとりの幅はあるでしょうけど、作者の頭には元々は一意的な意味もないとは思いません。オリジナルのアイデア・イメージができた後で、恣意的に意味を拡散させてしまうことがあったとしても。

その意味では、あまり邦楽のような「コピー的歌詞」に仕上げることにこだわらず、1つ1つの単語の意味を丸めてしまわず、直訳で意味を探っていくことは重要です。何度も悪例を挙げているように、アルバムに添付の邦訳はあてになりません。
日常会話が充分堪能できるからといって、ファンでもない帰国子女にアルバイトで訳させる程度の結果(ではないでしょうか。あの結果を見ると。)を、音楽出版社やレコード会社のスタッフが入念なチェック評価をする、なんて力量はバイトにもスタッフにもないでしょう。訳者の世界観とか社会性とか、そういうものが色濃く反映する次元のものなので、会話が充分できる、という程度では、おかしな訳、文意と文意をつなぐこともない実にいい加減な訳になってしまっても、むしろ当然というものです。


  1. 2009/06/28(日) 12:28:14 |
  2. URL |
  3. 亀田 滋
  4. [ 編集 ]

YESアルバム「Close To The Edge」タイトル曲の歌詞について。

誰もが名作と認めるYESのアルバム「Close To The Edge」ですら、コアなファンにおいても、その訳のあり方には不確かなものが多いことに驚かされます。勿論、素晴らしいサウンドだけ聴いて「最高だ」と感じるのは自由です。私もそうでした。
でもあれだけ長い歌詞の断片も分かっていないで「最高だ」と言っているのも、いつしか虚しくなるものです。
最近、それで私は難解だと皆が解釈を避けているような作品について、翻訳を通して作品を再度味わい直そうと試みています。

多くのファンの戸惑いは、難しい概念なのに言葉はシンプルであるところにあるのでしょう。
この点、邦楽は今やどのジャンルも、その源流が四畳半フォークにあることは先日記述した通りでありますから、とにかく説明口調、アジ演説口調がくどく、そういう戸惑いはない訳です。つまりこんなプログレのように、洋楽のコア中のコアな音楽を聴く人々にも、「島国特有に育った、くどい説明調の歌詞が中心の音楽」の弊害は浸透してしまっている、という構図が浮かび上がって来ます。

本来、サウンドと言葉は言葉の両輪であって欲しいと思います。邦楽は言葉が音楽の価値の全てを決めてしまっています。そういうのは私は好きになれません。作曲家でありたかった人間のサガでしょうか....。

以下は、YESアルバム「Close To The Edge」タイトル曲に何度か出てくる「 I get up , I get down 」というフレーズの意味一行に関して、特に曲の最後に出てくるそれ、に対しての解釈説明です。(おっ。入試問題みたいか。「その『それ』は何を指しますか?なんちて。^^;)
訳せないし意味がつかめない、とのお話に、解説補助のコメントをつけたものです。
冒頭1行は他の方の記述を引用致しました。引用に関して感謝申し上げます。

---

> 「Close To The Edge」なんか「私は昇る。私は降りる。」ですよ!

ご参考までに、こんな映像を頭に浮かべてみて下さい。
未来に続く一本の白い線のような道。他は抜けるような漆黒です。良く見ると先々が霞んで見えていません。苦労してそこにたどり着くと、踏み外したり滑落して溺れたりすることも見えているのかも知れません。でも主人公はそこを行くのです。背中のほう、つまり辿ってきた道は遥か下のほうにあって、既に苦難も、得た教訓も、全て含めて1つの渦を巻いているのが見える。つまり、全て今は乗り越えた高みにある。

「私は立ち上がる。また倒れる。」....そしてまた立ち上がることは言うまでもありませんが、立ち上がれるかどうかは主人公にも分かりません。
「私はまた倒れ、また立ち上がる。」ではないんですね。立ち上がってもまた倒れることを否定しない、言葉少なげな中にある確固たる勇気....。
そして主人公は歩いて行きます。概念としての1本の白い線の道は、いつしか実世界では自然の路になっていて、木漏れ日や川のせせらぎが彼を優しく祝福して包んでゆく....。

そんな映像を共有できれば、充分過ぎる言葉ではないでしょうか。その映像を共有するためにあのサウンドはあるんですよね。
映画を見るのと同じです。映像がサウンドなんですよね。なので歌詞が縛る部分も音楽の意義の全てではない。

日本のフォーク系音楽(今や全ての邦楽ジャンルに染み渡っていますが私は苦手です)だったら、「倒れることを恐れるな。それを乗り越えたところに栄光がある。お前はそれを乗り越えられるのだ。なぜならお前は唯一無二だから。倒れることを恐れるな。何度倒れてもまた這い上がれ。栄光はお前の前に待っている!」とか言うのでしょう。
そういうのはうるさいです。頭が痛くなります。誰にでも分かる歌詞になるのかもしれませんが「そこまで言われなくても言いたいことはもう伝わってるよ」といつも思います。「人生の応援歌」とか言われると「勝手に応援してテラ銭求めるな」とか言いたくなります(ひねくれ者です)。

何より曲が要らなくなります。アジ演説みたいで。
そういう作曲が担う部分が相対的に薄くなる音楽は私は好きにはなれません。自称作曲家のサガですかね。

ここで1つ拙作を(おいおい)。

---

倒れたときにも泥にまみれた 両手の指に灯る光が

10の方向に伸びてゆくよ それはまた新たなる道となる

一歩一歩ずつまた探りながら

---

拙作「楽園追放」(10分の大作。演奏と自身の歌唱は3流)のラストの歌詞ですが、「Close To The Edge」を聞く前に作りました。
(私はYESを、というかプログレをリアルタイム進行で聴いていません。勿体無い話ですけど。)
「 I get up ,I get down 」ととっても似通っていて、初めて「Close To The Edge」を聴いたとき、そのことにも感銘を受けたものでした。

拙作のその歌詞の部分にも、映像の共有が少し必要ですね。なので「 I get up , I get down 」解釈のための「易しい演習例」(?)として書きました。
人生に打撃があって倒れた時でさえ、泥の上についた両手の指先10本に啓示の光がまた灯るのです。その光が自分の目の前でまた10の道を照らし出し、刻んで行ってくれる訳です。その1つ1つを辿るまで、自分は倒れることを自分に許さない、という歌詞です。

「フォーク野郎」(失礼な言い方ですが)と違って、こうは直接書かないのです。
聞き手は受け手ばかりに甘んじることなく、自分で一歩作品のほうに解釈の歩み寄りをする余地を作って貰っています。
それがプログレの美しいところ、奥ゆかしいところだと私は思っています。

そしてそれが60年代に「ロックは子供の戯れ事。煩くやんちゃなばかりで、ジャズやクラシックの高尚には比べようもない。」と鼻で笑われた構図への最大の反撃であるところの「知的反抗」の真髄であり、そもそもそれがプログレの存在意義なのだと感じています。


  1. 2009/06/28(日) 12:30:00 |
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  3. 亀田 滋
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