その曲の中で、私の「座右の銘」的なお気に入りでもあり、時々、ホームページや旧掲示板でも触れている部分ですが、この歌詞の最後(原詞から存在する部分)に、こんな内容があります。
「倒れたときにも泥にまみれた 両手の指に灯る光が 十の方向に延びてゆくよ それはまた新たなる道となる 一歩一歩ずつまた探りながら」
作ったときには全く関連性どころか、存在も知らなかった祖父の句が、後になって私の中で強く認識されることとなりました。
当時30代の私はイメージを言葉にするのに、これだけの文字数が必要でしたが、81で没した祖父はもっと完結に内的イメージを形にできたのかもしれませんね。
知識は遺伝しません。でも血筋とか資質というものは、表情や外観のように受け継がれていくものなのかもしれませんね。
まあ孫の私が脈々とは受け継いでいないのが、祖父や先祖に申し訳ない、と感ずるべきかもしれませんけど。(父や弟はもっと平凡な存在なので、そんな責任感などは全く感じないのだろうと思いますが。)
当時、私が所属する会社には非常に徳の高い方がいらっしゃいまして、その方のご尽力で私は熾烈な元の職場でなく、別の社内研究部署にリハビリしながら復職することができ、それからいろいろな職務を転々として今に至っています。
そんなこともあって、私は折々にふれて墓参りをします。「自分の思いを聞いてくれるのは墓だけか」とくさっていた時期も正直ありました。
大阪生まれ大阪育ちの私には、原点となる故郷の風景がありません。きっとこの墓がそれに似たものなんだろう、と最近思います。
戦災によるダメージもあって、かなり表面などが劣化してきています。父に修繕のことを言っても「針金で縛るかしないといけない」などと的外れなことしか返って来ませんので、いずれ私の代で何とかしないといけないんだろうなあと思っています。
歯科の開業医をしている弟は、職務多忙でなかなか墓参りをしていませんでしたが、自宅、職場で度々起こる明らかな霊障(不可解に機材が壊れる、など)で医院のスタッフから「お願いですから墓参りをして下さい」と言われて最近は墓参りを母としているようです。
直後から霊障はなくなったらしいです。怨念とかではなく「きっととても会いたがっていたのではないか」と私などは思っています。
そんなこともあって、ますます私は何かにつけて、迷いなどがある時にはこれからも墓参りをするでしょう。
大阪市内にある墓から帰宅して、ベランダから見た大阪平野の風景は実にクリアーでした。
私の気分も晴れ晴れしていたという以上に、やはり連休で車の排ガスや工場の排煙がないと、大阪平野はここまで澄み渡るのだ、ということなんですね。これは連休のたびに思います。
EOS20Dを持ち出して、28mm画角での全景と320mm画角での望遠での撮影をしてみました。
遠くはPL教団の塔まで見えました。その左は天王寺、難波など大阪ミナミあたりですね。探せば通天閣などもある筈です。夜景の中に探すのは結構簡単ですが。
こちらが大阪キタになります。梅田周辺です。
新大阪周辺、奥に京橋あたりが同じ塊に見えています。昔は大阪城も探せば見えましたがビル群に没したようです。
伊丹空港の様子も一望です。国際空港時代には周辺のネオンも派手に綺麗でした。
最近、このあたりにツインタワーが建ったのに気づきました。連休前には霞んで見えませんでしたが。周囲に同様の高層建築物がないのできっと近くで見ると目立ちますね。
うちから見える大阪平野の左(東)端です。この巨大な建物は昔からありました(何でしょうね)。
「神の視座」というほど高空からの視線ではないですが(そうだったら通勤帰路が大変^^;)、職場や雑踏を全部見下ろせる、このベランダからの眺めが私は好きです。ささやかな特等席のようなもので、このマンションを買ったときには、まさかこの夜景に向かって天体撮影をする趣味を復活させるとは思ってもみませんでしたが(^^)。
空もクリアーで、昨日までの台風の影響がまだ上空気流には残っているとは思いましたが、ベランダから木星が見えている時間帯に大赤斑が見える日でしたので、ポンセマウント+銀次とC8一式を温度順応させていました。
さて、夜景も綺麗に見えてきました。
手持ち撮影でしたが、木星も写ってますね。(矢印の先)
この後の顛末は次の記事にて....。